[職場闘争]“狡兎死して走狗烹らる”は侮辱的な表現か?【続編】〜古典に学ぶ自律的な生き方〜

2019年8月27日付け「反論及び回答要求書」で、協会に反論と其の申し入れの意図するところの回答を要求した。そして、其の回答が、回答期限である9月9日(月)にファクシミリで組合事務所に届いた。

此処で一つ協会の対応で偉いと思うのは、此れ迄、組合からの何度か団交要求でも抗議への回答要求等を行なって来たが、質問への拒否回答も含めて、大体は期限には回答を返してくる(遅れるなら遅れるで連絡が来る)ことである。此れには敬意を表する。
但し、其の中身は今回もそうだが、残念ながら誠実且つ的確な回答とは言い難いのは遺憾である。

726協会前&社会福祉士養成所情宣時の協会職員の反組合的敵対行為についての開き直りについては、一先ず置いておくとして、“狡兎死して走狗烹らる”については、明らかに曲解・誤読…言いがかりの類であって、「やれやれ、困ったな」と思うものであった。
少し、該当箇所を引用してみようか(一部伏字)。

「…xx氏が「走狗」で、xx氏が貴組合の活動を管理職に報告しているといった用事がなくなれば、 当協会から用済みとして使い捨てにされると理解できます。そもそも、「狡兎」を貴組合に喩えていること自体が不適切であり、引用の適切性に疑問はありますが、そこは一先ず措くとしても、xx氏は当協会から頼まれたわけでもなく独自に対応している以上、事実とは異なる意味ですし、xx氏のことを上記「走狗」に喩えていること自体xx氏を揶揄していると窺え、さらには、この故事成語を「知っているか」などと無教養であるかのごとく嘲笑・揶揄するものと理解できます。」

更に、此のブログ記事を見た協会職員某は、「精神的な苦痛とともに憤りを覚えた」らしく、古屋総務課長に言ったらしい。

“狡兎死して走狗烹らる”は侮辱的な表現か?【前編】【後編】で、一々、故事成語・故事成句を引用した表現に難癖を付けてくる協会の対応に、態々、原典に当たって解説したところだ(本ブログ読者の高校国語教師からは漢文の解説書を読んでいる様で楽しかった等、一部には評判が良かった)。

単に“走狗”だけを取り出すならば、嘗て、当該の学生時代に、革○派と中□派が「権力の走狗」「ファシスト」と罵り合い、凄惨なテロが行われていた暗い時代があったことを思い出すが、そう謂う意味で使っている訳ではなく、“狡兎死して走狗烹らる”の前後には“飛鳥尽きて良弓蔵られ”とも在り、故事成句の一語を取り出して、過剰反応する方がどうかしている…ということは【前編】【後編】にも記しているから、今更言う迄も無い。
しかも、「知っているか?」と問うこと自体「嘲笑・揶揄」しているというが、案の定、知らない訳だから、当該は固より、他者様からも嗤われない様な教養や読解力、論理と修辞を身に付ける可きである。全国の会員・関係者から協会事務局職員の資質や素養が疑われるぜ。
其れに加えて「精神的苦痛」か…。そりゃ悪かったねぇ…。しかし、組合情宣の度に毎回事務所から外に飛び出して来て監視しているにも拘らず、しかも「頼まれたわけでもなく独自に対応」等と言っておき乍ら、其れを態々、総務課長の古屋に言うってどういうことよ? 「精神的苦痛」について言うならば、職場で排除や嫌がらせを受け続け、組合情宣行動にも敵対的介入をされ、日々針の筵に在る当該組合員の「精神的苦痛」を協会はどうしてくれるんだ?

…と、まあ、協会の回答はこんなものであるが、冒頭でも述べた様に別な面で感心したことがある。

一つは、此の協会の9月9日付「回答書」には、南部労組の過去の労働争議である、組合情宣におけるプライバシー侵害に係る損害賠償請求事件のアールインベストメントアンドデザイン事件の判例(東京地裁平成21年12月24日判決・東京高裁平成22年9月16日判決)が例示されていたことだ。
良く知ってるね…。当該が南部労組に加入する前の争議なので、争議があったことは知っていたものの、其の顛末と詳細は当該も知らなかった。
但し、此れはアール闘争の一局面での使用者への抗議ビラ撒き行動であって、解雇撤回・地位確認訴訟との同時並行で情宣ビラの内容が問題となったケースであり、今回の南部労組・福祉協会の組合掲示板ブログでの、個人情報を伏せた上での批判とは質を異にするものである。

もう一つは、組合の言論活動への介入は、ともすれば支配介入(労組法73)に当たるが、現状、本件は言論での抗議に留まっているので、労使での言論戦の域を出ていない。
我々としては、仮令、言いがかりであろうと、言論戦其の物を否定するつもりは毛頭無く、逆に言論戦は歓迎である。当然、使用者側にも言いたいことは有るだろうから、使用者側にも我々組合は反論・主張の余地を閉じてはいない。或る意味、言論戦での遣り取りは、健全な労使関係への道筋となる可能性も含まれているからである。勿論、其れは公開で行われ、書面のみならず、対面での交渉(団体交渉)へと繋がれば尚良い。
但し、此れも使用者側が弁護士任せであったり、法的対抗措置を匂わし、組合の言論活動への威嚇・萎縮を目的するならば言語道断であり、其れには組合としても言論での対抗以外の方法含めて徹底的に闘うのみである。

其れにしても、何故、協会顧問弁護士から「申入書」や「回答書」が届くんだ?
言いたいことが有るなら、協会が直接言って来ればいいし、「精神的な苦痛とともに憤りを覚えた」当事者が言って来ればいいことだ。
協会は此れ迄も組合からの書面回答は常任理事名や会長名で回答しているくせに、公印使用規程に反して公印を使用したり、我が組合宛に有印発信文書として残したく無いから公印を押してなかったりと、組織としての対応に疑念を抱かせることをして来たことを、都労委の場でも我々に暴露されたから、「都労委平30不15 日本知的障害者福祉協会事件」の代理人に過ぎない弁護士から送らせていると勘繰らざるを得ない、協会事務局らしいセコイ対応だ。
又、協会の9月9日付「回答書」は文面の珍妙な論理展開から協会管理職が主導的に作成したものであろうことは直ぐに判る。因って、我々組合は“走狗”ナントカについては一々反論せず、其れ以外の件を踏まえて、2019年9月26日付で201999日付「回答書」に対する反論及び再回答要求書」を送った(一部伏字)。

さて、726情宣のブログ記事に話を戻すが、当該組合員としては多少腑に落ちないところも在ったが、南部労組として検討した結果、協会職員等の反組合的言動は別途、問題の本質を明らかにし、其れ自体は今後追及するとしても、「申入書」の内容も鑑みて、多少記述を変更しても良いのではないかとの結論に至り、写真の削除と表現の変更を行った。
どうやら協会は“走狗”という表記は嫌な様なので、「しょうがねぇなぁ…」ということで、意味としては全く変わらない“良狗”に変更した。元来、“走狗”とは「良く走る猟犬」のことで、要するに「良い猟犬」という意味である。所詮、会社や組織の人間は「猟犬」に過ぎない。しかし、猟犬と雖も、良心を失ってはならないし、正義を貫き、自らを律せねばならぬこともある。其れが二千数百年後の我々に司馬遷が教えて呉れたことだ。
当該記事の表記変更については、元記事に追記している。此れで少しは納得したかな?

最後に、本ブログ読者から、漢籍由来の故事成語は案外と知らない人が多いよ、という指摘もあったので、「走狗」か「良狗」か、将又「良弓」かの言い換えに絡めて、“朝三暮四”のお話を付け加えておこうか。
此の故事成語は道家思想に由来する。中国思想の中では私が最も理想とする境地に近い思想である『荘子』から、該当箇所の白文と書き下し文を引用する。


『荘子』内編 斉物論編 第二

勞神明爲一(神明を労して一を為しながら)、而不知其同也(其の同じきを知らず)、謂之朝三(これを朝三と謂う)。何謂朝三(何をか朝三と謂う)、(曰く)、狙公賦芧曰朝三而莫四(狙公、芧を賦ちて朝に三にして莫に四つにせんと曰うに)、衆狙皆怒(衆狙みな怒れり)。曰然則朝四而莫三(然らば即ち朝に四にして莫に三にせんと曰うに)、衆狙皆悦(衆狙みな悦べり)。名實未虧而喜怒爲用(名実未だ虧けずして喜怒用を為す)。亦因是也(亦だ是に因らんのみ)。是以聖人和之以是非(是を以て聖人これを和するに是非を以てして)、而休乎天鈞(天鈞に休う)。是之謂兩行(是を両行と謂う)。金谷治(訳註)『荘子 第一冊(内篇)』岩波書店 1971から(当該一部改変)

食事の栃の実を朝に三つで夕に四つだろうと、朝に四つで夕に三つだろうと、実際は同じことなのに、そんなことで喜怒の感情が左右される様ではいけない。聖人は物事の分別を調和させて(天鈞)、万物斉同の境地(両行=等しく行う)に至るのである。

“朝三暮四”の寓話は『列子』にも見られる。
著者の列禦寇も道家であるが、『荘子』斉物論と寓話自体は一緒であるものの、著者の解釈が異なり、上手い具合に言い包める人間の方に重点が置かれている。なので、此の訳文を引用すると、又も哉、一知半解の難癖を付けられて要らぬ説明をする破目に成り、労働組合ブログではなく、漢文学習ブログ(笑)になってしまうので、敢えて白文の儘とする。
前半は大体『荘子』斉物論と同じ。興味が有る方は諸橋轍次の『大漢和辞典』にでも当たって、調べてみて下さい。(笑)
因みに、引用の岩波文庫版の『列子(上・下)』の訳註者の解題は視点がユニークで一読の価値が有る。

『列子』黄帝編 第二 十九

宋有狙公者。愛狙養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。将限其食、恐衆狙之不馴於己也。先誑之曰、與若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而日、與若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。物之以能鄙相籠、皆猶此也。聖人以智籠群愚、亦猶狙公之以智籠衆狙也。名賞不虧、使其喜怒哉。小林勝人(訳註)『列子(上)』岩波書店 1987より

何が言いたいのかは、御解りのことと思うが、「燕雀安知鴻鵠之志(燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや)」(『史記』「陳渉世家」より)の心境である。

協会の回答次第では続くかもしれない。

…The end

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