映画評「家族を想うとき」

年末年始の休みで、ケン・ローチ(Ken Loach)監督の映画「家族を想うとき」(2019)を観ました。
ケン・ローチ監督はイギリスの映画監督で、主な作品のモチーフとして、貧困・ホームレス・労働などの社会問題を取り上げることで良く知られ、その社会批評への眼差しから、高い評価を得ている監督です。

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JOSS BARRATT, SIXTEEN FILMS 2019 / © SIXTEEN SWMY LIMITED, WHY NOT PRODUCTIONS, LES FILMS DU FLEUVE, BRITISH BROADCASTING CORPORATION, FRANCE 2 CINÉMA AND THE BRITISH FILM INSTITUTE 2019

邦題「家族を想うとき」の原題は“Sorry We Missed You”です。最初、“Sorry We Missed You”は「(私たちは)あなたがいなくてさびしい」という意味かな?と思いましたが、どうも宅配便の不在票の決まり文句で「お届けに来ましたが、ご不在でした」という意味らしいことが、映画を観ていて解りました。映画の主人公リッキーは宅配便の運転手・配達員です。
洋画を観る際いつも原題は何かをチェックしていますが、この映画も“Sorry We Missed You”を敢えて「家族を想うとき」とする理由が解らず、原題そのままの方が良かったのでは?と思いました。しかし、“Sorry We Missed You”を「お届けに来ましたが、ご不在でした」という邦題にすることもできたでしょうが、「家族を想うとき」はこの映画の主人公目線から、そして家族から見えた主人公(夫・父親)は“Sorry We Missed You”なのだろうと、邦題「家族を想うとき」は“想い”のベクトルの違いについて、割と練られて付けられたのかもしれないと、映画を観終わってから考え直したのです。

映画のあらすじは、本作の公式サイトをご覧いただければ、大凡のことは解ると思いますが、以下の通りです(記憶を元に書いているのでディテールに若干間違いがあるかもしれません)。
director_photo_02舞台はイギリス北東部。元建設業だった主人公のリッキーは家の購入の為に宅配業の配送ドライバーとして宅配運送会社と「個人事業主」として業務請負、フランチャイズ契約を結びます。そこで会社の現場監督のマロニー(この役を演じている人は俳優ではなく現役の警察官らしいが、やけに演技が上手い)から「勝つも負けるも君の頑張り次第だ」と告げられます。しかし、配送車をレンタルするか購入するか、いずれにしても多額の初期投資を強いられます。配送車の購入資金の為に、介護士の妻アビーが訪問介護で使用している自家用車を売り、配送車を購入します。この様にフランチャイズ契約で働き始めたリッキーですが、思っていた様な報酬を得られず、週6日・1日14時間も働く羽目になり、家族と一緒に過ごす時間などほとんどなくなりました。配送車の購入を巡っても妻アビーとの関係も悪くなり、夫婦間のいざこざや家庭を顧みる余裕のない両親の生活は、子供達の情緒にも悪影響を及ぼします。
配達スケジュールに拘束され、休むこともできず、何かと契約上の罰金や損害賠償で雁字搦めにされ、個人事業主で仕事の請負にも拘らず、自由で裁量的な働き方など全くできないことに驚きます。これでは雇用され、管理監督されている労働者と何ら変わらないばかりか、おまけに「個人事業主」の為、労働者保護の権利も及ばないという過酷な労働の現実がありました。

この映画を観ながら、日本でも起こった事件や出来事を思い出しました。それは、2003年の運送会社「軽急便」の立てこもり放火事件「セブンイレブン」の東日本橋1丁目店での出来事です。
仕事に必要な配送車を購入させたり、レンタル料を徴収したり、罰金・違約金の枷を嵌められ、本部に都合のいいフランチャイズ契約で縛られて、「個人事業主」でありながら、無裁量・無権利状態に置かれ、過重労働に追い込まれるその姿は、まるで日本での事件・出来事を取材したかの様でした。

これから鑑賞される方にはネタバレになるので、あまり言いたくはないのですが、映画のエンディングは「えー、これで終わりか!」という結末です。ケン・ローチ監督の前作「私はダニエル・ブレイク」(原題 “I, Daniel Blake”, 2016)は映画の途中から何となく結末が予想できましたが、今作は(良くも悪くも)意外でした。映画的なフィクションの世界では色々なエンディングが思いつきそうですが、現実の世界では何かに取り憑かれた様に自分を追い込んでまで仕事へ駆り立てられて行く労働者は容易に想像できます。自分ならどうするだろうと考えると、やはり主人公のリッキーと同じ様にしていたのだろうと思うのです。実際、私も過去、家族を顧みない仕事中心のselfishな生活をしていたこともあります。なので、この映画を観ながら、家族がガタガタになっていく有様を見るにつけ、自責の念に駆られました。
しかし、主人公リッキーは「家族を想う」からこそ、身も心もボロボロになりながらも仕事に向かう。だけれども、それを家族は全く望んでいない。最早、何の為に働いているのかがわからなくなってしまう。正に人間の労働そのものからの疎外です。

フランチャイズの本部企業からすれば契約した「個人事業主」の生活や健康、家族のことなど、どうでもいいことなのです。徹底した市場経済原理から見れば、人間は取り替え可能な単なる労働力に過ぎず、人間らしい生活や権利、配偶者や子供などの家族は唯の付属品=「贅沢品」でしかありません。
優勝劣敗の資本主義経済には、「労働者」だろうが「個人事業主」だろうが、そこには厳然とした搾取の構造があります。それが資本主義経済の原理だから…と放置しておいては、持てる者は経済的繁栄を勝ち得るでしょうが、持たざる者をより一層の貧困へと追いやり、貧富の格差が拡大することは言うまでもありません。虚栄する経済の陰で社会は確実に崩壊へと向かいます。
映画の舞台となったイギリスやその他の国、そして日本で「雇用の流動化」「雇用によらない働き方」「自由で裁量的な働き方」という掛け声の下で、これまで闘いの歴史の中から勝ち取ってきた労働者の権利を剥奪・制限させられた働き方が推進させられている現状は今更説明を要しないでしょう。「自由な働き方」はいいとしても、ギグ・エコノミーなどの短時間労働も含めた労働者の非正規化、個人事業主化の負の側面から目を逸らしてはいけません。私たちは人間的で持続可能な社会の為に、資本家・富裕層を利するだけのこの潮流にははっきりと異議申し立てをすべきです。

失業と貧困を題材とした前作の「私はダニエル・ブレイク」には、映画のクライマックス・シーンと言える印象的なシーンがあります。官僚的で融通の利かない行政への主人公ダニエルの人間としての心の叫びのプロテスト・実力行使に、劇中に登場する通行人の様に、観劇する者もダニエルに喝采を送り、快哉の感を思ったことでしょう。少々ネタバレになりますが、今作の「家族を想うとき」にも、体のいいことを言って請負(労働者)へ責任を押し付ける非情で吝嗇な会社の現場監督マロニーへ、主人公リッキーの妻アビーが電話で心の底からの怒りの罵声を浴びせるシーンがあり、この映画のクライマックスの一場面になります。これは前述した「セブン-イレブン」東日本橋1丁目店の、夫と長男を自殺で亡くし、家族を崩壊させられた元オーナーの妻のフランチャイザー本部への怒りの訴えを思い起こさせます。
アビーは会社の現場監督を電話で罵倒・抗議した直後、「私は介護士なのに“汚い”言葉で人を罵ってしまった」と泣き崩れ、彼女の職業倫理の高さと仕事への誇り、それでも怒りを表さなければならなかった思い、そして、これまで負担を強いられ、対立していた夫リッキーへの彼女の夫婦愛・家族愛と絆に胸を打たれます。
この映画の主たるモチーフは世界を蝕む現代の過酷な労働実態への告発ですが、何かを犠牲にしてまで働いて得られる報酬が大切なのか、人間らしく生きる方が大切なのか、愛し愛される人との関係をも考えさせられます。

映画「家族を想うとき」は現在公開中です。そして、同監督の前作「私はダニエル・ブレイク」も併せてご覧になられることをお薦めします。

…The end

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