前回、part 2からの続きである。質疑応答と当該組合員と管理職の応酬の際に、現在、東京都労働委員会で組合に不当労働行為(支配介入・不利益取扱い)の張本人として申し立てられている水内事業課課長代理から「この時間は労働者代表を選出する為に仕事が忙しい中で皆んなが集まったんじゃないんですか? 総務課長の説明で十分で、xxさん(当該組合員のこと)とのやり取りは別な日や時間にやってください」という意見が出た。
毎度の様に何だか突っ掛かる物言いは不快だったが(笑)、成る程、彼女の意見は御尤も、一理ある。そこで、当該組合員が「水内さんの今の意見には一部賛成です。だから、要求・意見書にも書いたんですが、もっと時間的な余裕を持って労使で話し合ってから労働者代表を選出し、労使協定を締結すべきなんですよ。それに、皆んな忙しいのはわかっているんだから、時間的な制約が課せられる一堂に会して挙手を求める様な選出方法ではなく、投票で代表選出をした方がいい」と言ったところ、水内事業課課長代理は「私は投票には反対です!」と。うーむ、投票制の利点について一応その理由も言ったんだが、何をもって反対なのか解らんが、それもあなたの意見なんでいいんだけど、皆さんどうよ?…と思ったが、特にどうという他の職員からの意見は出なかった。
古屋総務課長は、当該組合員(今回は一事務局員としてだったが)の要求について歯牙にもかけないということではなく、今後の課題として検討するという“前向き”な姿勢を示してくれたので、改めて、事務局職員や組合との団体交渉マターになると理解し、当該組合員はこれ以上協定内容に再意見・再要求はせず、労働者代表選出に移った。
当該組合員から、管理職が労働者代表選出を仕切るのはいかがなものかという指摘(本報告記事のpart 1参照)があったからか、管理職は黙って推移を見守り、選挙権を行使するに留まり、結果、過半数の同意を得、職員Yが労働者代表として選出された。
ただ、問題は、現在産休中の職員がおり、彼女に労使協定内容と労働者代表選出が行われることが周知されているのかということだった。これを管理職に問い質したところ、「いや…(むにゃむにゃ…)」と言葉を濁していたので、はは〜、さては言ってないな…と思い、「彼女にも労使協定の内容が及ぶし、彼女も労働者代表選出の分母となり、選挙権・被選挙権があるんだから、周知しないのはマズイでしょう」と指摘した。
そうしたところ、三浦政策企画課長(兼事業課長)からは「大企業でそこまで厳密にやっているところはあるんですか?」という何ともナイーブな問い返しがあった。これには「“ブラック企業”*ならそんなこと無視したり、過半数御用組合に丸投げするところも在るかもしれないけどね…」と言いそうになったが、“平和主義”且つ“労使協調”を旨とする(笑)当該組合員は無駄に挑発的な発言を避け、事の本質はそこにあるのではない為、「いや、そういう問題じゃなくて、行政解釈上(労働省労働基準局長が疑義に応えて発する通達(昭和46年1月18日 45基収第6206号)やこちらの記事を参照)もそうだし、彼女が権利行使できないことが問題だと言っているんです」と答えた。事業場の労働者の寡多に拘らず、ちゃんとやっているところはちゃんとやっているし、実際、我が組合と連帯共闘関係にある、と或る一人で闘っている組合の職場では投票箱を設置させ、全員参加でやっている。又、職員Fmから「産休中で赤ちゃんがいるのに、そういうことを彼女に求めるのはかわいそうじゃないかと…」という意見も出されたので、「勿論、わざわざそんな最中にここに来て挙手せよってことじゃないんだよ」と答えた。
他の事務局職員には“面倒くさいことを言う奴だ”と思われるのは百も承知で言っていて、当該組合員としてもツライんだが、これが民主的な労働者代表選出のキホンの「キ」であるので、指摘すべきことは指摘せざるを得ない。
* 余談だが、以前、African American(アフリカ系アメリカ人)の友人に何の気無しに「ブラック企業が…」と言いたくて、直訳的に“…like, a black company…”口走ったところ、“Look! My skin is black. So, my company is a black company, you know?”とやんわり不快感を顕にした。彼は日本で「ブラック企業」という言葉が普通に使用されているのは十分に承知していても、不快に感じている様だったので、無神経にもそういう言葉を使ったことを彼に詫び、反省した。彼は“Don’t worry, bro!”と言ってくれたものの、Political Correctnessとして、「悪徳企業」(というと別な意味合いも含むが)とか、exploitative corporation(搾取企業)とか…何か良い言い換えがないかと思っている。
協会が労使協定内容につき、過去、違法状態だった頃から比べれば、全職員から意見聴取する様になったことは素晴らしい前進であり、労働法令遵守に向けた積極的な姿勢は評価できる。うるさい当該組合員の意見に誠実に対応してくれているとも思う(大体はゼロ回答だが…)。そこから更に一歩進んで、各職員の意思を汲み取り、協議を重ね、出された意見要求を開示し、その上で労働者代表の立候補者を募り、期間を定めて無記名投票の秘密選挙で代表選出が行われ、労使協定が締結される方が、より公平公正且つ効率が良いの言うまでも無いだろう。労使協定の在り方は労使共に考えなければならない事柄なので、つまり、労働者との合意が必要な労使協定は労働者が締結を拒否すれば成立し無いことから、協会も「職員に委ねている」とお任せではいられないのである。
以前、某知的障害福祉施設の労働者代表選出規程を紹介したことがある。この様なモデル的な規程を労使で作成し、現在、協会の業務遂行・スケジュール管理に使用しているグループウェアを上手く活用すれば、出張・休暇中でも意見表明や代表選出の権利に制限が課せられることは無くなるのではないか。今後、労使でアイディアを出し合い、意見交換と協議、検討を望むところだ。
「権利の上にねむる者(は、これを保護せず)」
さて、先程、民主的な労働者代表選出のキホンの「キ」と述べたが、労使協定締結と労働者代表選出は、“民主的”とは何かということを考える好機でもある。
「権利の上にねむる者は、これを保護せず」というヨーロッパの古い法諺がある。
これは日本の民法第166条以下の消滅時効制度の根拠を言い表している。債権者が請求権を行使せずに放置していると、モノによって異なるが、1年から20年で時効が成立し、債権は消滅する。
この法格言を拡大・敷衍して、基本的人権について述べたのが、政治学者の丸山真男だ。丸山は「権利の上にねむる者」を、日本国憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」及び同第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」の立憲意志(一般意志)に「権利の上にねむる者(は、これを保護せず)」と共通の精神を見い出す。読んだことの無い方に向けて、少し長くなるが、該当箇所を以下に引用する。
「学生時代に末広(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。…(中略)… この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。
…(中略)…
この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ教科書風の空疎な説教でもありません。
…(中略)…
私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物といえましょう。」−−「IV 「である」ことと「する」こと」 丸山真男(著)『日本の思想』岩波書店 1961
以前の記事でも触れたが、「権利はたたかう者の手にある」という言葉と同様、人権思想や民主主義の要諦をこれほど的確に表している言葉はないのではなかろうか。
人権思想や民主主義はこの様に「不断の努力」を怠ると、いとも簡単に崩壊しかねない政治制度・思想であり、ともすれば、ポピュリズムや衆愚政治に陥りかねない不完全な政治思想であることも事実だが、今我々が生きる社会は、建前としても、人権思想や民主主義の原理の下に営まれている。
なるべく大勢の人間が参加すること、議論の土台となる情報に完全にアクセスできること、自由な言論が健全な場で保障されること、これが機能しなければ“民主的”とは言えない。そして、民主主義の多数決の原理は多数派が実権を握れば何をしてもいいということではなく、少数派の意見や権利も尊重し、擁護されなければならない。なぜならば、それが顧みられないと多様な意見の封殺に繋がりかねないからである。要は人民の積極的な参加と自治が無いところには民主主義は存在し得ない。
そして、その実践は我々の身近で小さな実践から。労働組合・組合活動は“民主主義の学校”である(と、嘗ては言われていた様だ**)。
** 「労働組合は、自治的な組織を持った民主主義の大きな学校であるということができよう。
それだから、労働組合の任務は、決して賃金の値上げや労働時間の短縮やその他の労働条件の改善を要求するという経済上の目的だけに尽きるものではない。労働組合は、それ以外に更に重要な社会的・文化的な任務を担っているのである。」−−「第10章 民主主義と労働組合」 文部省『教科書 民主主義』1948
1981年の国際障害者年のテーマは「完全参加と平等」、1993年に国連で採択された「障害者の機会均等化に関する基準規則」、障害者権利条約には「他の者との平等を基礎として(on an equal basis with others)」の文言が随所に謳われている。
協会は知的に障害のある人の「意思決定支援」の促進に取り組んでいるという。Decision-Makingは身近で小さな権利行使だ。我々は自らの権利を主張することに困難さを抱える人々をsupportし、adovocateしなければならない。
協会事務局のこんな有様を、協会会長の井上さん、どう思われますか?■
…The end
挙手よりも投票の方が民主的な選出方法であることは明白ですよね。挙手では民主的選挙の要件である秘密の原則が守られません。表立って異を唱えない(唱えられない)労働者にとって、挙手は異論封じの格好の方法です。まして、職場に労働組合がある場合はなおのこと。組合派と思われたくない労働者もいるでしょうから。労働者が本音で職場の代表を選出できる方法を、福祉協会は真剣に考えるべきですね。おっしゃる様に、障害当事者の意思決定支援の問題でもあり、就A事業所や一般就労での障害者雇用でも考えなければいけないことですからね。
今年もよろしくお願いします!
秘密選挙の実施を協会が頑な拒むのは、単に面倒だし、そのためのアイディアが思いつかないという能力的なこともありますが、当該含め組合の要求なんか絶対に受け入れないぞ!という陰険な意志があるからでしょう。
民主主義がどうしたこうしたと偉そうに書いてしまい、今見るとちょっと恥ずかしいんですが、これこれを要求として使用者側と交渉します!と立候補者を募って、期間を定めてインターネット投票をした方が一番手間も省けて、公平公正、効率良いんで、使用者側にとってもなんのデメリットもないはずです。
なのにそうしないってことは…ん?と思いますよね。
協会事務局の有り様も会員にどう見られることか…。
本年もどうぞよろしくお願いいたします!
労働者代表を選出する場に、なぜ課長とか課長代理がいるのでしょうか?彼らは選出する時は退出したのでしょうか?挙手にしろ投票にしろ、どうするかは労働者だけで決めるべきことですよね。管理職がそこに同席していること自体がおかしい!
コメントありがとうございます。
事業場の労働者代表の分母には、協定内容にかかわらず、文字どおり臨時職員や管理職含む全労働者となる、というのが行政解釈のようで、管理職も選挙権があるとのことです。それもなんか変だなぁ…とは私も思います。
問題なのは、管理職がいる中で職員に挙手させるのが、民主的な方法なのか?です。
かつて、挙手で代表選出するなら、公平公正上問題があるから、課長(代理)は退出してくれと言ったこともありますが、「管理職じゃない!」と言い張って、労働者代表選出仕切っていました。こちらの記事をご覧ください。
https://jaidunion.wordpress.com/2016/12/17/conclusion-of-36article-agreement/
法解釈どうこう以前に、こういう鈍感な人間達が、障害のある人の「意思決定支援」がどうしたこうしたと言っているんですから、喜劇としか言いようがありません。