[閑話休題]「人は一人では生きられないということ」最首悟〜『さぽーと』2016年12月号「であい」より〜

2016年12月号の『さぽーと―知的障害福祉研究』の「であい」に元東大助手・和光大学名誉教授の最首悟先生に小論・随想をご執筆いただいた。ちなみに「人は一人では生きられないこと」という題名は、本文にもあったが、先生の著書『星子が居る』の中にある節にあった言葉ともかけて* 私が付け、先生のご了解をもらった。

*一七、一八の若者にある種の文章を課すとまず百パーセント「人間は一人じゃ生きられない」と書く。そういう文章を見る仕事をもう一◯年以上しているので、根は深いのだと思う。(同書所収:星子が居る「一人で生きる」という人間観)

「難解なお話や晦渋な表現は避けて、なるべく易しく書いてくださいねっ!」というお願いに「はい、わかりました」とご快諾いただき、1回だけ畏れ多くもダメ出しして書き直してもらったが、読み返すたびに、いい文章だなぁと初めて先生の著書『星子が居る』を読んだ時のような気持ちになった。お読みになられた読者諸氏はどのような感想を持たれただろうか。

saishu-satoru

最首悟(2016年1月)

私事ではあるが、大学受験浪人生時代、駿台予備学校に通っていた。同じ駿台生で東大医学部志望2人と同じ下宿にいて、生物と小論文に最首悟という東大の先生がいることを知った。最首悟といえば、山本義隆(元東大全共闘議長で同じく駿台講師)と並ぶ、東大全共闘の闘士ではないか。左翼青年だった私は、医学部受験コースがある駿台市ヶ谷校舎(たぶん)に行き、もぐりで授業を聴いていた。ミーハー的な理由だったから、今となっては授業内容は全く覚えていない。(笑)
結局、受験は失敗して滑り止めに受けた三流私大に渋々行くことになったが(別に最首先生の所為ではない)、最首先生含め駿台講師から学んだことはとても大きく、学ぶことの楽しさに開眼させられたし、学問とは何かを教えてもらったと思っている。未だにその精神は私の心の糧になっている。

それからだいぶ経って、評論家・呉智英の著書『危険な思想家』に「最首悟の不気味な自己否定」と呉智英らしい口調で最首悟批判が書いてあった。簡単に言うと、「自己否定」の結果、障害がある子を授かることを願い、差別される側に回って喜ぶとは知識人としてなんと恥知らずなことか、という論旨。それを読んで正直そうなのかなぁと思った反面、それは否もっと複雑な思いがあるのでは?という疑問を感じたことから、最首先生の『星子が居る』を読んだ。呉智英の批判は『朝日新聞』記事が元ネタであるが、この本には東大全共闘の難解生硬な「自己否定」論に類するものなどなく、人間が存在することについての考察や、星子さんの居る日常生活の情景が思い描ける、心の一角が氷解していくような読後感を覚えた。

それからさらに時間を経て、障害福祉“サービス”がマクロには新自由主義経済政策により、ミクロには経営工学的に語られ始め、そして障害福祉団体や関係者までもがその尻馬に乗って社会保障や福祉を語ることにどうしても違和感を拭えず、本当にこんな議論をしていていいのか? 人が「生きる」ってどういうことなんだろう? 大所高所からだけ眺めていて、ちっぽけな命が生まれ・つい消える瞬間がわかるのか、感じることができるのか? という根源的な自問から、最首先生が私塾「最首塾」を開いていることをインターネット上の情報で知り、それ以来、何か答を得るために参加してもう4年くらいになる。

星子さんのこともあり、“いのち”について語れる学識者として、津久井やまゆり園での殺傷事件について多くのマスコミから取材を受け、先生も丹念にそれに答えていた。最首先生から短い期間ではあるが薫陶を受けた者としては、ここは『さぽーと』誌にもぜひ登場してもらわねばならない。しかも、単に事件についての寸評ではなく、人間とは・いのちとは、そして前述した星子さんと一緒に生きてきて思うことなど、すべてを語り尽くす紙数はない、片鱗でもいいから読者に触れてもらいたいと思った。多くの人がなくなった悲しい出来事を契機とするのは心に引っかかるものはあれど、今ここで金口木舌として登場してもらう絶好の機会だと思い(実務的なことを言えば、「であい」のコーナーは営業的にそこそこ名の知れた人に登場していただきたいんだが、これがなかなか見つからないという理由もある)、編集委員長に趣旨とマスコミに登場した記事一覧を見せてOKとなった。

201612support

『さぽーと』2016年12月号

このたびの先生の小論・随想を要約すれば、人間の持つ二者性=二者であってこそ「あなたのあなたとしてのわたし」の人間である。望むと望まないとにかかわらずバラバラにされた個人ならぬ「孤人」の意思は国家へと向かう。しかし、先生は星子さんが生まれたことによって、お互いに依存し、ケアし・ケアされる人間の有り様から人間を捉え直していこう、と。

2005年、社会保障審議会障害者部会から「障害者自立支援給付法要綱案」が示された時、「“自立”ってなんだよ」という言葉がまず私の頭を過ぎった。経済自立せよと言っているのか、身辺自立せよと言っているのか、はたまた個人を確立せよと言っているのか。個の自由な競争・市場原理は政府の支配を脱するリバタリアニズムとは皮肉にも逆を指向し、直轄の個人管理によって、個人を確実に国家に帰属させようという意図を感じさせるもので、これは細かな事務的な制度設計をみても間違いないだろう。
Milton Mayeroffの“On Caring”には重要なキーワードとして、“In being in-place”「場の中にいる」が出てくるが、ケアし・ケアされる関係における人間の成長を妨げる社会的要因や競争からの自由を「場の中」でこそ実現できる。そして、それが人間である(私なりの解釈だが)。

先に引用した『星子が居る』の節の後半にはこうある。今回の『さぽーと』誌掲載の先生の小論・随想と関連すると思うので引用させていただきたい。

——欠けているのは、いうまでもなく、「一人で生きる」という人間観である。「一人」とは、さしあたりあらゆる関係を抜きにしてもそこに人間は居るという考えであり、宣言である。ときに激しく、親から生まれ落ちたということさえ拒否する見方である。この「一人」ということにおいて人間は字義通り「平等」なのである。すこし具体化すると、歴史的にはたぶん「人は臣として生まれない」というジョン・ロックの言葉になるのだろうと思う。「臣」とは属するという意味である。そのような自由な「自然」人が複数居て社会が出現、形成された。この順序は社会がどれほど深化し古びても、個人史では、いつも新しく生気する。つまり存在が関係に優先しているのだ。
星子に対して、ひょっと出てしまう思いは、結局は星子の、このような「一人」性を認めていない。人間観を変えるには二筋も三筋も縄が必要なのである。そのことだけはやっとわかった気がする。(同書所収:星子が居る―「一人で生きる」という人間観)

たまには『さぽーと』誌で人間観・社会観・世界観に関わる哲学的な考察もいいのではなかろうか。

さて、最後に余談であるが、数年前の最首塾忘年会で「職場で冷飯喰わされていまして、20年間ヒラのままなんです。ははは…」とぼやいたら、先生は「僕は27年間助手のままだったからねぇ」と笑っておしゃられた。そんなこと気にするのはつまらんことだよ、というエールだと解した。それ以来、辞めるまでヒラで居座り続けることこそ、“勲章”と思っている。

…The end

コメントを残す