
『さぽーと』2017年8月号 特集「津久井やまゆり園事件から1年が経過して─障害者の安心・安全を守るために─」
雑誌編集者稼業をしているとゴールデンウィークとお盆休み、年末年始の休みは印刷所や取次も休みになるため、休日があるのは嬉しいことだが、編集作業の日数が減り、タイトスケジュールにいつも頭を悩ませる。8月号は10日に納品・発送となったので、15日前後には全国の読者諸氏の手許に届くだろう。
そんな業界ネタの内輪話は兎も角、津久井やまゆり園での殺傷事件から1年経った。事件については、史上稀に見る凄惨な事件であり、忌むべき出来事であったことは今更説明を要しないだろう。1年が過ぎた今、各障害福祉団体の機関誌では事件を振り返る特集や記事が組まれている。各論者の観点も然る事乍ら、其々の団体の主張や編集方針が伺えて興味深い。
そして、協会でも『さぽーと』2017年8月号で「津久井やまゆり園事件から1年が経過して─障害者の安心・安全を守るために─」として特集を組んだ。津久井やまゆり園は協会の会員施設であり、協会は事業者の団体であることから、編集方針にも団体の特徴がよく表れている様に思う。
石渡和実先生(東洋英和女学院大学教授/神奈川県・津久井やまゆり園事件検証委員会委員長)は、本論のリード文で「筆者は…津久井やまゆり園事件に関して、神奈川県が設置した検証委員会の委員長を務めた。その立場でありながら報告書には納得できない部分が多く、自責の念を強く抱いている。事件から検討すべき本質的課題は、障害者に限らずホームレスや外国籍の人などを排斥しようとする「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」であり、こうした社会病理にこそ着目しなくてはならない。障害分野においては,「優生思想」という「障害者否定」の論理との闘いでもある。」と述べている。

『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店 2016)
『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店 2016)で医師の香山リカ氏が述べているように、加害者は精神障害者とは言えず、この事件の思想的背景にあるものは、社会病理としてのヘイト・クライムであったと指摘していることにも通じ、多くの論者も指摘していることである。しかし、誌面の制約から、そこまで掘り下げた先生の考察を本論に掲載できなかったのは少々残念であったが、検証委員会での議論を知る貴重な論考である。ヘイト・クライムに関連し、それを補う論文は、児玉真美氏(障害のある子を持つ母親であり、生命倫理に関する事件を追うフリーライター)と蒔田明嗣氏(北海道・北海道療育園/手話通訳士)の生命倫理からの考察に見ることができる。
また、萩原勝己氏(神奈川県・素心学院/協会危機管理委員長)の調査からの考察にもあるように、この事件は施設・利用者の安全管理を再考させる契機にもなったし、入倉かおる氏(神奈川県・津久井やまゆり園園長)が職員と共に助かった利用者の平穏な日常を取り戻すための取り組みなど、事業者側の視点からこの事件が残した傷跡を知ることができる。
本特集での各論者に通底し、事件以後、障害福祉の前進を目指す我々と立場を同じくする多くの論者に共通する一つの論調は、現実のものとなった障害者の「生きる権利 (right to live)」が危険な状態に晒されていることへの危惧である。
本特集でも言及されている、生命倫理に纏わるパーソン論 (Theory of personhood)の様な先鋭な思想はあまり一般には知られていない。私の知る限りでは『さぽーと』誌上でパーソン論について言及されたのは、2010年12月号の医師・江川文誠先生の「知的障害者とインフォームドコンセント−医療場面における自己判断・自己決定−」が初めてではなかったかと思う。江川先生の論文は本特集でも取り上げられている生命倫理「観」についての考察と植松氏が抱いた様な思潮、優生思想やその亜種への警鐘であったが、それが生かされることなく、5年余後にこの様な事件が起こってしまった。

『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』(東海大学出版会 1988)
このような思潮に興味を持たれた方は、少々古いが、パーソン論の代表的主唱者であるM. TooleyやH. T. Engelhardt, J. Feinberg, J. Fletcher, et alの主要論文が収載された『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』(東海大学出版会 1988)を読まれることをお薦めしたい。ヒトがどのような状態になったら人格 “personhood”を失うのか、生命の尊厳や価値に線引きができるのか、安楽死・尊厳死=与死とは、技術と人間の生命、自己決定が困難な(状態になった)人々の尊厳と生死の自己決定を考える上での基本文献である。

『実践の倫理[新版]』(昭和堂 1999)
この論集にも収められており、本特集の児玉氏と蒔田氏の論考の中でも批判的に取り上げられているのが哲学者のPeter Singer氏である。氏は功利主義的倫理を説き、代表的著書である“Practical Ethics” 1993(邦訳『実践の倫理[新版]』昭和堂 1999)の中で、「自己自身を持続的存在もしくは持続的な精神的自己とみなす意識がいくらかでもなければ、存在に生存権を付与するための最も説得力のある議論でさえ適用できない。また、自律に対する尊重の原則があてはまるのも自律の能力がある場合だけである」と述べ、重度の障害のある乳幼児の積極的安楽死を肯定している。氏は自らの思想に準じて、動物解放を訴え、環境問題や貧困撲滅にも取り組んでいる実践家でもある。だからと言って、言うまでもないが、植松氏の様に実際に障害者を殺して回るような実践を推奨しているわけでは勿論ない。
ところで、当のP. Singer氏本人は津久井やまゆり園事件についてどう考えているのか?
これについて知ることができる動画があるのでご紹介したい。2016年8月1日、P. Singer 氏が出演したオーストラリア放送協会(ABC)のテレビ番組“Q&A”で、障害当事者で活動家のKath Duncan氏に「あなたがあの殺人者の狂気を呼び起こしたんじゃないのか?」と問い詰められる場面があり、それに対してP. Singer氏が答えている。*
キャス・ダンカン: ピーター・シンガーさんに質問があります。あなたは乳児殺しを支持しているでしょう? 殺人の…
ピーター・シンガー: いいえ、それは正しくない。
キャス・ダンカン: それは、いつからあなたの考えが変わったの?
ピーター・シンガー: 私は考えを変えたことなどありませんよ。わたしがいつも支持しているのは、親が意思決定の選択を行うということ、親が重度の障害がある子の意思決定の選択権を持つべきで、重要なのはすでにそうしていることです。
キャス・ダンカン: いや、事実上…
司会: キャス、質問をしてください。
キャス・ダンカン: はい。事実上、あなたが言っていることは…
ピーター・シンガー: いいえ。
キャス・ダンカン: 例えば、日本で1週間前に、19人の障害のある人たちがある人物に殺されました。それを支持する…
ピーター・シンガー: あなたは私がそれを支持しているとでも?
キャス・ダンカン: 私の質問を終わりまで聞いてください。
司会: ピーター、彼女に終わりまで。
キャス・ダンカン: お願いします。
司会: だけど、キャス、質問だけにしてください。
キャス・ダンカン: 障害のある人の選択的安楽死を支持している。あなたの思想は私たち障害者を傷つけるような考えを後押したんじゃないんですか?
ピーター・シンガー: 全く違いますよ。最初から私が言ってきたことは、乳児についてです。わかるでしょう?
キャス・ダンカン: 私が言っていることは、それとどこが違うのか?という…
ピーター・シンガー: ええ、あなたの疑問は…
キャス・ダンカン: どこが?
司会: わかりました。ピーターに答えてもらいましょう。
ピーター・シンガー: あなたの疑問は…
キャス・ダンカン: すみません。
ピーター・シンガー: …たくさんの人を殺しに行った殺人者についてですね。
キャス・ダンカン: はい。
ピーター・シンガー: もちろん、誰もが生きたい思うことは疑いのないことです。障害の有る無しに関係なく、充実した人生を楽しむことは最大限保証されるべきだと私は思います。私が言っていることは、病院の新生児集中治療室で行われている決定についてで、深刻な障害をもって生まれた新生児の治療をやめて生命維持装置を取り外すという場合、その決定は親が行うということです。これは常に起こっている事態で何も問題のないことです。しかし、子供が自発的に呼吸できたならば、その決定は親から取り除かれるのです。医師は装置を使い、親はそのような決定ができない。それで、望む望まないにかかわらず、その子の面倒をみていくことになるであろう親の疑問に対して、ある発言権を与えたいということなのです。そこで、彼らのうちの…
キャス・ダンカン: あなたは日本の殺人者に共感するんですか?
ピーター・シンガー: 違う。全く違う。それは私の言っていることとは何の関係もない。
司会: ピーター・シンガーさん、ちょっと引用させてください。特にプリンストン**では多くの疑問や抗議の原因となっているように思うので。「もし、赤ちゃんが死ぬ方が良いという決定が親と医師によってなされたのなら、脱水症状や感染症からゆっくりと死に至る赤ちゃんの生命を維持することを放棄するばかりではなく、速やかに安楽に赤ちゃんの命を終わらせるように積極的な手段を取るべき可能性を私は信じる。」
ピーター・シンガー: 確かにそれはいつも私が言っていることです。親と医師が相談の上、決定するということであって、頭のおかしい人間が施設に入り込んで、人を殺すということとは全く違いますよ。
* 翻訳は当該組合員によるもの。語学力が乏しいので、間違いがあったらご指摘ください。出典はこちら。
** 乳児の積極的安楽死を肯定するP. Singer氏が教鞭を取っているプリンストン大学では、障害者運動家に度々辞職要求の抗議行動を起こされている。例えば、“Protesters Block Nassau Street, Call for Princeton Professor Peter Singer’s Resignation” Planet Princeton, 2015.6.10
植松氏がM. TooleyやP. Singerらのパーソン論に影響を受けたのかどうかはわからないが、生命の価値に境界線を引いたり序列を与える思想は、どこか論理を弄ぶゲームの様な様相を呈してしまう場合がある。そこに一見「論理」的に正しさが見えたとしても、ヘイト・クライムへ進もうとする者に追い風を送ることになる危険を孕んでいることを、理解しておかなければならない。
この他にも、施設建て替え問題から派生した、大規模入所施設か都市部でのグループホームに居住の場を移す地域移行か、精神障害者の福祉、殊に治安の観点から俎上に上がった精神保健福祉法“改悪”案、被害者の匿名報道の是非など、多くの論点はあるのだが、10数頁の特集枠ではとても論じ切れるものではない。
再び、冒頭のような内輪話に戻るが、実はこの特集、2017年度の年間を通しての編集会議で“ある意見”が出され、果たして実現できるのかどうなのか怪しかった(今は詳しく書けないが)。しかし、特集リードにある様に編集委員長の熱い思いもあり、また、当該組合員含めて私達編集実務担当者も編集委員長の編集方針を支持する立場から、記念すべき特集を何とか実現できたこと、しかし、私個人的にはもっと踏む込んだ、例えば、たまたま被害者にならなかった障害当事者や「加害者」と同列視され、国家権力によって治安管理の対象にされかねなかった精神障害関係の方にも執筆いただき、増刊号にするくらいの特集にしたかったのだが、とりあえず『さぽーと』誌史上に議論を避ける汚点を残すことなく刊行できたことに安堵している。
また、編集実務を担っていてこんなことを言うのも何なのだが、校了後に気が付いたことがある。協会が唐突に会長名で出した5月31日付の声明についてはこの特集では一切触れられていない。載せるべきか否かの議論も特に無かったし、誰からも指摘を受けなかった。
まあ、仮にそのような議論が協会事務局でなされていても、好き嫌いで露骨に人を排除したり、組合敵視著しい職場なので、編集実務者である当該組合員への情報遮断が図られ、私が与り知らないだけなのかもしれないのだが…。それにしても、協会は事件後3度声明を出しているが、『さぽーと』は協会機關誌でもあるのだから、何か直近の声明に言及されても良さそうなものだが、なぜだろう?
これまでの声明の内容について特に論評するつもりはないが、協会は小中学生を対象に「障がい福祉ふれあい作文コンクール」を実施しているんだから、せめて小中学生の模範となる様な文章表現や修辞の巧緻に気を配ってほしいものだと思ったものだが…それは兎も角、そんなことも頭の片隅に置きながら、読者諸氏に本特集を読んでいただきたい。
最後に、特集ではないが、PandA法律事務所の弁護士・社会福祉士である浦﨑寛泰氏が7月号からの連載しているセミナー〔司法と福祉の連携〕「加害者となってしまう障害者の支援」も罪を犯した知的障害のある人の入口・出口支援に関わる司法関係者・福祉関係者の役割を設例を基に詳しく、かつ、わかりやすく論じている。こちらもぜひご一読をお薦めしたい。
氏の「人は『再犯防止のために』生きているわけではありません。決して、更生支援は、再犯防止を目指してはならないのです。」は至言である。■
…The end