(前編からの続き)1960年に精神薄弱者福祉法が制定される以前は、知的障害児(者)施設の法的位置付けは児童福祉法にある精神薄弱児施設であった。しかし、戦後制定された児童福祉法が施行される1948年以前からある知的障害児(者)施設は、戦前は法外施設であり、年齢の定めもなかったことから、日本で最初の知的障害児の教育・福祉施設の滝乃川学園は、児童福祉法が成立したことによって、早くも年齢超過児問題を抱えることになるのである。『滝乃川学園百二十年史−知的障害者教育・福祉の歩み』には、1948年当時ですでに定員の1/4が20歳以上であったと記されている。
この年齢超過児は、成人の知的障害者の施設も法制度としてもなく、施設外の地域社会にもその受け入れ先などなく、全国の知的障害児施設で大きな問題となるのは時間の問題でもあった。さらに、対応を困難にさせたのは、児童福祉法上、満18歳の延長措置により満20歳に達した場合、措置の対象外となり、措置費が打ち切られたことである。今でもある悲劇ではあるが、措置が打ち切られ、やむなく施設を退所し、帰宅の途次に親に絞殺されたり、家庭に引き取ったものの、養育困難となった結果、母子心中となった“障害者殺し”も起こった。
身体障害者福祉法は1949年に成立していたので、知的障害のある成人への法的保護施策をどうするのか、児童から成人を対象とする一貫した福祉法制定は知的障害福祉関係者の悲願であった。そこで国から急務の策として発出されたのが「精神薄弱児施設における年齢超過者の保護について」(昭和26年2月13日児発第59号)*である。
*インターネット上にリンクできる通知全文がなかったので、誰かが参考したい人がいるかもと思い、全文掲載します。

『愛護』No.29(1960年2月29日発行)より
このような経緯から、年齢超過児(者)は生活保護法上の救護施設(生保法31条2)や更生施設(生保法31条3)に移行(収容)されることになる。また、知的障害のある子を持つ親が施設経営者に働きかけたり、親の運動や負担により退所後の成人施設が法外施設「自由契約施設」として数多く開設・運営された。今もある歴史ある成人施設のルーツは自由契約の形態であった。なお、児童施設として唯一の例外は、児童福祉法改正により、1958年に開設された「国立秩父学園」(定員100名)である。「国の設置する精神薄弱児施設に入所した児童についてはその者が社会生活に順応することができるようになるまで、…(中略)…在所させる措置を採ることができる」(旧・児福法31条2)とあり、前述の状況を鑑みてか、国立秩父学園には在園年齢の制限はなかった(しかし、2012年の改正児童福祉法によりこの条項は廃止された)。
知的障害児施設で20歳以後も延長して措置入所が認められるようになるのは、精神薄弱者福祉法制定後の1967年の児童福祉法改正においてである。
1959年、社会福祉事業法一部改正により「精神薄弱者援護施設」が第一種社会福祉事業となり、翌年1960年4月1日、関係者悲願の「精神薄弱者福祉法」が成立施行される。『愛護』No.29(1960年2月29日発行)では、成人施設特集を組み、「論苑」子、糸賀一雄、田村一二、登丸福寿などが精神薄弱者福祉法案成立への期待と課題を寄稿している。共通する論旨は、措置費の単価は児童施設に比べて低いものの、貧困対策ではない知的障害者のための福祉法であることへの評価と、児者一貫した行政担当課の設置、児者施設の併設の認可要望など切れ目のない支援、障害のある人たちを18歳の年齢で区切ることへの教育・福祉的な観点から疑問である、と法案を冷静にみている。
60年近く経った今、時代背景も程度も違うが、今でもまた同じような問題が残っており、解の出ない社会科学には進歩というものはないのだろうかと思ってしまう。今般の18歳や65歳での介護保険への移行のように年齢で輪切りにした福祉が障害当事者の利益に適うのか、ましてや費用負担増になるなら福祉後退である。“収容保護”の時代性は別にして、私も当時の『愛護』誌に共感するものであるが、かと言って、知的障害児・者には、生涯を知的障害の福祉一本で行うということにも、その人の一生に“知的障害者”というstigmaを与えはしないか、とも感じる。
60年前とは違い、児童入所施設に求められる機能も多様化し、より支援の専門性を持たなくてはならなくなった。そして、施設外の暮らしの場、地域社会での暮らしの場での制度施策も比べものにならないほど充実している。それでも、なぜ地域移行ができない人たちが出てくるのか。重い障害のある人が地域で生活するために必要な支えは、“箱”であったり“事業”であったりではなく、福祉労働者であるケアワーカーやソーシャルワーカーを充実させなければ、新たな制度施策も既存の社会資源も有効活用できないだろう。また、地域間格差で障害者の地域生活の可不可がわかれるようになってはならず、ノーマルな生活のためには、彼らの生存権や幸福追求権を国が保障しなければならない。
…てなことを、昔から変わらない問題だなぁと思いつつ、また、移行の実績も紹介してくれればもっといいんだけどなぁと思いつつ、webの放送を観ていた。それでも、社会への啓蒙活動として、協会の調査がニュースで流れることはとても意義深いことだ。
ここから、職員会議の話に戻ります。
昨日、協会の調査を基にした年齢超過児・者の退所問題や地域生活移行の課題がニュースで取り上げられたのだから、協会としても光栄なことでもあるし、当然誰かが知っていただろうから職員会議で報告や話題にあがるのかな?と期待していたら、報告もなければ、話題にも上らなかったのにはガッカリした。時間が夕方だったのでリアルタイムで観られない人がほとんどだったと思うが、みんな知らなかったのか?それとも興味ない?そんな話どうでもいいから、めんどくさい協定書に誰か早く判子押してくれ、ということか?
季節のご挨拶やその月のスケジュール確認だけならば、言わなくても協会事務局のグループウェアをみればわかることだし、「えー、私が今月出張でいない日は…」なんて言ってないで、自分のスケジュールをグループウェアに入れておけばいいだけの話だろ。(苦笑)
せっかく、全職員が対面で話ができる月1回の会議なのだから、定例的な報告はあっていいけれど、話題提供から職員が自由に討議することができたっていいんじゃないのか。これもまた、昔から変わらない悪習なんだが、年々より酷くなっている。こんなところにも、職員間の横のつながりを分断したり、職場で自由に意見を言い合える環境をなくしていったりする素地があるのだ。■
弘済学園は精神科病院に勤めていた15年ほど前、看護師3人で見学に行きました。ガチガチの構造化だった印象がありましたが、今の施設長さんに丁寧に案内していただきました。
精神医療は発達障害についてのウイングを広げていたのですが、いまだに知的・発達障害福祉分野は精神医療・福祉の領域になかなかウイングを広げようとしません。医療観察法も含めて精神医療の領域で知的障害者がどういう暮らしを余儀なくされているか、施設福祉職員の思考の範囲外になっているのですが、それを話しても、精神医療の話だと無関係に思われてしまうのがなんとも悔しいところです。
児童施設の平成30年問題はこの記事で初めて知りました。何年か前に日の出福祉園の入所希望者であった東村山福祉園の「加齢児」の見学に行きましたが、平成30年以降は成人棟がなくなるんでしょうか。記事はとても勉強になります。ちゃんとさぽーとも読まなくちゃと、反省することしきりです。
それにしても福祉協会の36協定の問題は、知的障害福祉で働く労働者にとって驚くべき事態です。これまで福祉協会はディーセントワークをわたしたちに説いてきたわけですから…。正常化した暁には、福祉協会はさぽーと誌上でその経緯を説明して欲しいと思います。
日の出福祉園では、普通選挙(正規も非正規も)、一票の価値の平等、秘密投票、直接選挙と結果の公開という民主的選挙の原則を労使で確認の上で選挙管理規定を作り、労使で作る選挙管理委員会が労働者代表選挙を実施しています。(ゆにおん同愛会 林)
長文駄文お読みくださり、コメントありがとうございます。弘済学園は出版企画打ち合わせのために訪問したので(東京品川にあったアフターケアセンターにも)、療育場面はあまり拝見できませんでしたが、構造化のはしりでしたのでそういう感じだったでしょうね。
長くなったのでちょっとはしょりましたが、知的障害者が精神病院に“社会的入院”することになったのも、この1960年以前の事情によったりします。知的障害関係者はあまり精神障害領域には興味を示しませんよね。医療観察法が成立したときにニュートラルな解説を『AIGO』誌に掲載したくらいで、あれほど反対運動が盛り上がった病棟転換型居住施設も取り上げようとしましたが、結局あまり関心を引かないからか記事にできませんでした。
医療観察法の前例もあることですし、津久井山ゆり園事件の国の検証及び再発防止策検討チームも注視していかないと、まさに惨事便乗型“ショック・ドクトリン”ならぬ、とんでもない法律ができるのではないと懸念しています。
同愛会さんの代表選は素晴らしいですね!これからpart2で報告しますが、どうも協会事務局の管理職は労使協定とは何か?何であるべきか?をよく理解できていないようで(そんな説明では職員に理解を得られないとも思わなかったのでしょうか)、最初が肝心ですからなんとかしていきたいと思っています。こういう事例もあるよ、とこちらから提案・要求してみます。
『さぽーと』誌で取り上げられたら最高です!(笑)