[日々雑感]人間を選別することの傲慢さへの不快感と危惧〜不適性検査について〜

哲学者イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)は、“脱”産業社会を目指し、コンヴィヴィアルConvivial: 適当な日本語の訳語が見当たらないが、強いて言えば「自由闊達で友好的な楽しさ」と言ったところだろうか、訳本*では「自立共生」と和訳されている)な社会を理想として、それを阻害する道具(システム)の使用を抑制すること説き、実際に実践していた。イリイチは「コンヴィヴィアリティのための道具」としてコンピュータを挙げており、それがインターネットの普及に繋がったという見方もあったりする**。これは当時のカウンターカルチャーとしてコンピュータ(ネットワーク)が捉えられていた時代性もあるのではないかと思うが、現在、あっという間に性能が陳腐化してしまう市場経済のシステムに組み込まれた商品となったコンピュータ、グローバルな寡占プラットフォームになってしまった“GAFA(Google-Amazon.com-Facebook-Apple Inc)”、CIANSA元職員のエドワード・スノーデン(Edward Snowden)が暴いた国家権力の監視システムとして、インターネットが、ジョージ・オーウェル(George Orwell)が『1984年』で描いた「テレスクリーン」を彷彿とさせる事態を招いている今日、もしイリイチが生きていたら、この現状においても、管理社会的な統制からの自由のための道具と考えただろうか?と思う。

* イヴァン・イリイチ(著)/渡辺京二・渡辺梨佐(訳)『コンヴィヴィアリティのための道具』筑摩書房 2015
** 古瀬幸広・廣瀬克哉(著)『インターネットが変える世界』岩波書店 1996

「コンヴィヴィアリティのための道具」であった(あってほしい)コンピュータやインターネットが、人々の欲望を掻き立てる資本主義のシステムに内包されている現状を十分に認識しつつ、当該自身コンピュータやインターネットには結構昔から馴染んでいて(好きか嫌いかは別にして)、今もあるのかわからないが、懐かしのnewsgroup、“fj”の時代から、今時のいわゆる各種SNS(Social Network Service)を使って、インターネット上で友達(大体の人はリアルで少しでも付き合いのある・あった人)と交流したり、知り合ったりしている。友達の近況も知ることができるし、全く知らなかった、関心がなかった情報に接することもできるし、私自身の(たあいないものではあるが)情報発信の手段として有効に活用している。

…で、唐突に話が変わるが、最近、Facebookのタイムラインやweb広告に「不適性検査スカウター®」という広告が頻繁に表示されるようになった。
謳い文句は「\中小企業向けの適性検査/ 頼まれた仕事を忘れる、サボり癖がある、何度も同じミスをする を見抜く不適性検査」というもので、これまで、企業での採用試験で適性検査を行っていることはあっても、「不適性検査」まで登場するとは!と驚いた。と、いうのも企業の採用試験で求められるのは必要な能力であり、適性であり、あくまで応募者のpositiveな面の評価によって、公正な採用を行うことが示されているからである***。しかし、結果として応募者が「不適性」を有することは、現実的に選考過程において、選別は避けられないことも理解できなくはない…が、そこには何某かの排除の論理をシステマティックに正当化することに繋がる危惧を抱くからである。

*** 厚生労働省「公正な採用選考の基本」

「不適性検査スカウター」のFacebook上の広告投稿のコメント欄には、ブラック企業かどうかの検査もあればいい、社長含め上司・管理職がまずこれで検査されるべき、こんなもので採用選考する会社自体ダメだろ…etc.(2019年9月頃のコメント)と、その多くが批判的。全くその通りだ。

で、そのWeb Siteを覗いてみると、「導入社数 12,000社以上」との導入実績にも驚くが、まず目に飛び込んでくるpageにはこんなことが書かれている。

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う〜む、こういうのは個人的な資質もあるだろうが、使用者側のマネジメントや人材育成にも問題はないのか? 明らかに、使用者側は自分達は検査・考査の埒外にあるという、その自省を欠いた態度は傲慢そのものにしか思えないのである。


さて、当該の身近なところで考えてみよう。引き合いに出すのは当然、日本知的障害者福祉協会事務局の有様である。
例えば、日本知的障害者福祉協会の事務局長の末吉はまだ団交に出て来た第1回第2回団交で、自らの不手際を言い繕うために、誤魔化し・嘘を並べていたし、おまけに言い訳が通用しなくなるとみるや団交から逃亡。都労委の福祉協会事件では平気で事実無根の虚偽を書面に認め提出してくるは、常任理事のOは審問で虚偽の証言を行う、事業課課長代理水内の差別的嫌がらせ、総務課長古屋の職責放棄の無責任な言動・態度等々、この「不適性検査スカウター」で協会幹部・管理職のマネジメント能力や「価値観の傾向」(後述)の不適性を検査した方がいいのでは?と思わざるを得ないほどだ。(笑)
加えて言うと、協会事務局の人事評価など情実人事としか思えない様なもので、長年勤務していて客観的な人事評価基準など聞いたこともない。だから、課員に事前説明もなく、全く業務外の人間を管理職に据え、福祉協会事件6・6都労委審問でも、当該がこれまでどのような仕事をしていたかなど、証人の事業課課長代理の水内は全くわかっておらず、組合側補佐人(大手エネルギー関連企業労働者)からは「管理職が課員の業務内容を把握していないって、そんな組織があり得るのか?」と尋ねられる始末だった。

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『さぽーと』2019年8月号

『さぽーと』2019年8月号「訪問記」では、熊本県の社会福祉法人つつじヶ丘学園の職員の人事評価・人材育成として支援員の昇格要件が取り上げられている(取材者:三富達哉編集委員)。そこには、社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士の国家資格取得や協会認定資格の知的障害援助専門員の資格取得等が人事考課の要件とされ、さらに、事務長・施設長への昇格要件として、社会福祉士・社会保険労務士の資格取得が課されている。当該記事にもあるが、正に取材者の三富氏が言う様に「率先垂範が人を動かす」のである。
協会管理職で上記の様な資格を有している者はいない(勤務の傍ら、社会福祉士資格を取得し、修士号を有していたのは、退職に追い込まれた、社会福祉士養成所担当の事業課係長であった元職員のY氏のみであった)。
幾ら何でも、協会事務局は人的資源管理(Human Resource Management)としてレヴェルが低過ぎどころか、無策過ぎないか?


話を戻して「不適性検査スカウター」について、さらに見ていくと、検査項目は「能力検査」「資質検査」「精神分析検査」「定着検査」の4項目に分かれている様だ。
「能力検査」は適性検査としてはありふれた感じのものであるが、「資質検査」には「ストレス耐性」や「価値観の傾向」の評価があり、ストレス耐性については、労働者のメンタルヘルスのセルフケアとして、ストレス・コーピング(Stress Coping)も大切な要素ではあるが、使用者側が講ずべき労働者のストレス・マネジメント(Stress Management)を軽視してはいないか? また、価値観の傾向など、評価尺度で数値化されても、使用者側の判断次第で能力・適性を超えて労働者の内面の自由に踏み込むことになりはしないか?
さらに、その必要性に疑問に感じるのは「精神分析検査」である。該当pageにはこうある。

「精神科医の診断や鑑定といった習慣が日本にはなく、入社希望者に精神科医の面談を受けさせることも困難(ほぼ不可能)であることや、 採用選考時に精神面の評価を行っていることを知られたくないという世間体や評判が気になり、精神面の健康状態を内定条件に出来ないようです。」(2019.10.20確認)

この「精神分析検査」は、どういう心理評価尺度のアルゴリズムに拠るものなのか興味深いところだが、どう考えても、精神障害者や発達障害者と思しき者は排除する(した方がいい)と言っているに等しい。
勿論、こんな試験を課す様な会社や組織など、ハナから相手にしないことも応募者の自由だ。しかし、この様な人間の選別システムに隠された優生思想が地下水脈の様に存在し、いつ水圧上昇によって一気に噴出し、我々の社会に悲劇をもたらすかわからない、ということをよく考えた方がいい。

職業適性・不適性は労働者自身が知っていればいいだけの話だ。
それに、中小企業は人材育成・定着にかけるコストが云々とあるようだが、人手不足・労働力人口が減少している中、「不適性検査」で篩にかけて本当に人が採用できるのかね?という素朴な疑問が湧く。

「不適性検査スカウター」では、Web上で検査が行われた場合、その結果は即座に使用者側に伝えられるという。評価アルゴリズムが自動的に計算し、体裁よくグラフやチャート化するのはわけないことだから、当然そうだろう。
イリイチがコンヴィヴィアルな社会における道具と考えたコンピュータ(ネットワーク)が、この様に、ただの機械でしかないモニタを通して、人々を管理・統制している今日的状況は何とも皮肉な事態としか言い様がないが、コンピュータ(ネットワーク)による人民の「自由で生き生きとした楽しい共生」への再構築は不可能ではないと楽観的に考えつつ、私は今日もSNSその他で情報収集・発信している。そして、不快でウザい広告は非表示だ。


先日の2019年10月25日(金)、協会で職員(?)採用試験・面接が行われていた様だ。
当該の事務分掌とは関係ないし、ただでさえ協会管理職らは“嫌いな人間”には業務遂行に必要な報告・連絡・相談もしないので、私は蚊帳の外(明らかなハラスメントだ)に置かれているし、何の為の採用試験・面接なのかもわからない。

知的障害のある人たちの多様な働き方、「できない」こと探しではなく、エンパワメントを引き出すための支援により一般雇用へ繋ぐ等々、という言葉が踊る『さぽーと』誌の発行元の日本知的障害者福祉協会の事務局が、

ま・さ・か

とは思うが、「不適性検査」の様なnegativeな評価尺度による採用(排除・選別)システムを導入してはいないだろうと思う。
もし、そうならば、組織としての理念・思想が大きく問われることになるのではなかろうか。

…The end

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